今年の2月に『対話と承認のケア』という本を出しました。その中で、「ケア」というものについて、少しばかり調べたり考えたりしました。その中で、特に自分の心に残っているのが、アメリカのネル・ノディングスという、今日のケア論の基礎を築いた一人である哲学者の、ごく個人的な体験談です。
ノディングスがとなえたケア論そのものは、かなり徹底したものです。ケアをする人(例えば医療者や教育者)は、ケアの対象となる人(患者や生徒)が心に抱えている動機を、わがことのように感じる「動機の転移」を経験するはずだと、主張します。病気にかかっている人を前にして、その人が「よくなりたい」「元のように元気になりたい」と思う気持ちを、自分のことのように感じなければならない・・・。
理想としてはそうかもしれないけれど、そのように感じることが難しい状況もあるでしょう。たとえば、百人の患者を順々に診ていく医師。ごく短時間で診察をこなしていくなかで、一人一人の心情を「わがこと」のように感じることがどこまでできるでしょうか。あるいは、認知症の人からしょっちゅう罵られてしまう介護士。認知症によって気分の障害が起こっていると頭で分かっていても、怖い顔を向けて汚い言葉を浴びせてくる人の「動機」に、容易に共感できるものではないでしょう。
そう考えると、「動機の転移」は、一定の条件が整っている関係のなかでのみ可能なものではないのかと思えてきます。ノディングスがケアに求めるハードルは、凡人にはかなり高いものではないのでしょうか。
しかし、彼女が何気なく描いている、大学のカフェテリアでのちょっとした出来事からは、ケアはそんなに難しいものではないのだというノディングスの思いが伝わってきます。以下、私の本からの引用です。
..... 彼女がある日、大学で昼食をとっていたその席に、たまたま同僚がいた。ただしその人は、ノディングスにとって特に尊敬する人物ではなかったという。普段はあまり話さない相手と雑談をするなかで、彼は戦時下の海軍にいたときの経験を語り、それが自分が教員になった大きな動機だったという話を聞かせた。ノディングスは感動を覚えたが、彼の話のすべてを好ましく感じたわけではなかった。彼と同じ状況に自分が置かれたら、きっと同じ行動はしなかっただろうという部分もあった。それでも、その同僚が感じていたものを、自分も感じているように思える。ノディングスは同僚に敬意を感じた。専門家としての評価は大して変わらないにせよ、これからずっと、彼にたいする敬意は保ち続けるように確信している。「もはや私は、彼をケアする心構えを持っている」とまで述べている。 (『対話と承認のケア』p.138。元の場面は、ノディングズの『ケアリング 倫理と道徳の教育 - 女性の観点から』47頁。)
どうでしょうか? 私はこの同僚との距離感に、ちょっとホッとするものを感じます。同僚のことを好きになったとか、友情が芽生えたとかいうのではありません。日本人の感覚でいう「いい人だな」と思ったのでもないかもしれません。むしろ、自分とは違う性格、価値観、感性の持ち主なのだと、一定の距離感をもって、割り切って見ている感じがしませんか? 距離感を保ちながら(あるいは、保っているからこそ、かもしれません)、相手に対する敬意が芽生えている。こんな感じの「ケア」ならば、自分にもできるかもしれない。少なくとも私自身はそう思わされたのでした。
しかし、上に書いたような、たくさんの患者を診る医師や、認知症の人の不機嫌にさらされる介護士には、こんなふうに相手の身の上話を聞く時間や、心の余裕など、ないのではないかと、言われそうです。確かにその通りで、難しい問題ですね。少子高齢化が進む時代の保健医療のあり方の根幹に関わるような問題です。
ただ、ちょっと見方を変えると、こんなふうに見ることもできそうです。・・・「時間」とか「心の余裕」を失っている医師や介護士は、その時点で「ケアを必要とする人」になっている。かれらは、医師とか介護士という、制度上「ケアする人」という役割を持つ人です。それでも、対人関係のなかで、瞬間瞬間に「ケアを必要とする人」にもなるのではないのでしょうか。このようなケア者のもつ「弱さ」は、『対話と承認のケア』の中で、ある程度は書きましたが、もっと掘り下げて考えたいテーマです。