2020年12月18日金曜日

大学教育の理想は「広く、深く」なのですが

 このコロナ禍で、今年はずっと大学での教育について、否応なしに考えさせられてきました。オンデマンド式(動画配信)にせよ、ライブ配信式にせよ、どうすれば満足のいく講義になるのだろうかと、試行錯誤の繰り返しの一年でした。

 肝心の学生さんたちは、どう感じているのかと、授業評価のアンケートが気になるところですが、これが意外なほど好意的で、通常の年と比べても満足度などが下がっていません。それなりに力を入れてやってきたつもりなので、少しホッとしています。

 これまでいろいろと試みて感じている課題について、ちょっと整理しておきます。まず、これは受講者数が多い場合——感覚的には、30人を超えるような場合でしょうか——は、学生さんの様子を随時確認することが難しいのが最大の課題です。ライブ配信形式では、双方向のやり取りも、仕組みとしてはあるのですが、対面式のようにはいきません。ですから、「あれ、反応が悪いな」とか、「このトピックは不要だったな」とか、聞き手の反応を感じとって、即座に講義の進め方を変える、ということがほとんどできません。

 受講者が数人とか十数人くらいの場合は、受講者に顔を常時見せる形で参加してもらうと、1人1人の様子が分かりますから、ゼミナールのような雰囲気のよい講義ができる気がしていますが、人数が多いと、これはまったく不可能です。受講者は顔出しをせず(顔を常時見せてもらってもあまり意味がないので)、モニターに向かって一人で話している感じになってしまいます。観客のいないところで芸を披露する人の気持ちもこんな感じかなと。不安というか、寂しいというか...。

 もう1つは、課題のこと。今般のリモート形式の大学生活に、わりとうまく適応できている様子の学生さんから、「課題が多い」という声を耳にします。リモート形式になって、受講確認(通常でいう出席確認)や、知識の定着度の確認(通常でいう小テスト等)のために、課題を出さざるを得ないためでしょう。

 これについては、日本の大学教育の根本的な課題と言えそうです。日本の大学では、履修科目がとても多く(吉見俊哉氏によれば、米国では1週間に4~5科目であるのに対して、日本では11~12科目とのこと)、毎週全科目で課題が出たら、こなしきれなくなってしまいます。一般論として、欧米の大学では〈科目数が少なくて課題が多い〉のに対して、日本の大学では〈科目数が多くて課題が少ない〉という形でやってきた。その課題がこの状況で露呈したというわけです。

 大学教育の理想は、どうしても「広く、深く」ということになってしまいます。「広く」は、文系理系の区別や、学問領域の垣根を越えて、多様な知識に親しむことです。「深く」は、1つのテーマを文献と論理を使って掘り下げて学ぶことです。「広く」は、引き出しを増やすこと、「深く」は、あるテーマについて論じることができること、を目指します。

 「広く深く」をこの状況の日本の大学で学んでもらうには、どうすればよいのか。簡単には言えませんが、個人的には、講義の中で「広く」を示唆しつつ、多くの時間と労力を「深く」にかけるようにバランスを取ることではないかと思っています。

 「広く」は「示唆」するにとどめます。例えば、あるテーマに関連する事柄を幅広く取り上げながら話をする。1つ1つの事柄は、一瞬触れるだけかもしれませんが、その一瞬で関心を持つ学生さんがいるはずです。その学生は、その事柄を自分で調べたりするでしょう。

 あくまで、講義の多くの時間は、「深く」に割く。例えば、1つのトピックの歴史的背景から現在の概況、そしてケーススタディのような形で問題解決のアプローチを説明する。ここでは、歴史という時間の軸と、論理の軸とが、明確に見えている必要があります。

 クリスマスツリーで言えば、「深く」が幹や太い枝で、「広く」は葉や飾り物のようなイメージでしょうか。いわば教員が見本となって、「広く深く」を示すことができればよいのですが、う〜む、自分にできているかと言われると...。

2020年11月7日土曜日

ケアというものは難しい?

  今年の2月に『対話と承認のケア』という本を出しました。その中で、「ケア」というものについて、少しばかり調べたり考えたりしました。その中で、特に自分の心に残っているのが、アメリカのネル・ノディングスという、今日のケア論の基礎を築いた一人である哲学者の、ごく個人的な体験談です。

 ノディングスがとなえたケア論そのものは、かなり徹底したものです。ケアをする人(例えば医療者や教育者)は、ケアの対象となる人(患者や生徒)が心に抱えている動機を、わがことのように感じる「動機の転移」を経験するはずだと、主張します。病気にかかっている人を前にして、その人が「よくなりたい」「元のように元気になりたい」と思う気持ちを、自分のことのように感じなければならない・・・。

 理想としてはそうかもしれないけれど、そのように感じることが難しい状況もあるでしょう。たとえば、百人の患者を順々に診ていく医師。ごく短時間で診察をこなしていくなかで、一人一人の心情を「わがこと」のように感じることがどこまでできるでしょうか。あるいは、認知症の人からしょっちゅう罵られてしまう介護士。認知症によって気分の障害が起こっていると頭で分かっていても、怖い顔を向けて汚い言葉を浴びせてくる人の「動機」に、容易に共感できるものではないでしょう。

 そう考えると、「動機の転移」は、一定の条件が整っている関係のなかでのみ可能なものではないのかと思えてきます。ノディングスがケアに求めるハードルは、凡人にはかなり高いものではないのでしょうか。

 しかし、彼女が何気なく描いている、大学のカフェテリアでのちょっとした出来事からは、ケアはそんなに難しいものではないのだというノディングスの思いが伝わってきます。以下、私の本からの引用です。

..... 彼女がある日、大学で昼食をとっていたその席に、たまたま同僚がいた。ただしその人は、ノディングスにとって特に尊敬する人物ではなかったという。普段はあまり話さない相手と雑談をするなかで、彼は戦時下の海軍にいたときの経験を語り、それが自分が教員になった大きな動機だったという話を聞かせた。ノディングスは感動を覚えたが、彼の話のすべてを好ましく感じたわけではなかった。彼と同じ状況に自分が置かれたら、きっと同じ行動はしなかっただろうという部分もあった。それでも、その同僚が感じていたものを、自分も感じているように思える。ノディングスは同僚に敬意を感じた。専門家としての評価は大して変わらないにせよ、これからずっと、彼にたいする敬意は保ち続けるように確信している。「もはや私は、彼をケアする心構えを持っている」とまで述べている。 (『対話と承認のケア』p.138。元の場面は、ノディングズの『ケアリング 倫理と道徳の教育 - 女性の観点から』47頁。)

 どうでしょうか? 私はこの同僚との距離感に、ちょっとホッとするものを感じます。同僚のことを好きになったとか、友情が芽生えたとかいうのではありません。日本人の感覚でいう「いい人だな」と思ったのでもないかもしれません。むしろ、自分とは違う性格、価値観、感性の持ち主なのだと、一定の距離感をもって、割り切って見ている感じがしませんか? 距離感を保ちながら(あるいは、保っているからこそ、かもしれません)、相手に対する敬意が芽生えている。こんな感じの「ケア」ならば、自分にもできるかもしれない。少なくとも私自身はそう思わされたのでした。

 しかし、上に書いたような、たくさんの患者を診る医師や、認知症の人の不機嫌にさらされる介護士には、こんなふうに相手の身の上話を聞く時間や、心の余裕など、ないのではないかと、言われそうです。確かにその通りで、難しい問題ですね。少子高齢化が進む時代の保健医療のあり方の根幹に関わるような問題です。

 ただ、ちょっと見方を変えると、こんなふうに見ることもできそうです。・・・「時間」とか「心の余裕」を失っている医師や介護士は、その時点で「ケアを必要とする人」になっている。かれらは、医師とか介護士という、制度上「ケアする人」という役割を持つ人です。それでも、対人関係のなかで、瞬間瞬間に「ケアを必要とする人」にもなるのではないのでしょうか。このようなケア者のもつ「弱さ」は、『対話と承認のケア』の中で、ある程度は書きましたが、もっと掘り下げて考えたいテーマです。


2020年9月28日月曜日

大学での勉強の仕方:講義というものについて

  大きな教室で90分間の講義を聞く、というのが、日本の大学の最もよくあるスタイルです。90分というのは、じっと聞いているには長すぎますし、かといって膨大な知識を伝えるには短すぎます。90分をどう使うべきか、いまだに悩み続けています。

 自分が聞く側の大学生だったころのことを思い起こせば、もちろん、素晴らしい講義をしてくれた先生もたくさんいましたが、苦痛に感じる授業も少なくありませんでした。自戒の意味も込めて、あえて悪い方の例の共通点を考えてみると、ずばり、「話(トーク)として分かりやすさも面白さもない」ということに尽きると思います。ここでは「面白さ」の方は棚上げにして、「分かりやすさ」だけを取り上げます。

 講義の目的は、知識を「伝える」こと(単に「語る」ことではなく)ですから、分かりやすさは不可欠でしょう。ところが、この〈分かりやすく伝えることができる〉という、教育者に求めるべき能力は、日本の大学教員の選考課程ではあまり重視されてはいません。伝統的に重視されてきたのは研究業績であり、論文や著書の数などです。

 ただ、大学で学ぶ知識は、どの領域でも膨大で、また複雑化しています。例えば「感染症」一つとっても、ウィルスや細菌を系統だてて分類する知識(生物学)、感染して増殖し毒性を発揮する分子レベルの仕組みの説明(分子生物学や生化学)、集団の中で感染がどのように広がっていくかの説明(疫学や統計学)、感染症を社会的にコントロールするための法律や制度(法学や政治学)、さらには感染症が引き起こす偏見差別の実態やその防止策(心理学や倫理学)などなど。

 このように「知識」は、「○○学」というような枠組みを超えて、アリの巣のようにつながり合う、大きな「ネットワーク」のようなものになっているのです(文系と理系の区別なんて、とっくの昔に意味がなくなっています)。このようにネットワーク化した知識を講義という形式で伝えきるのは、大変に難しい。どうしても、90分間という時間の枠のなかで伝える内容を限定せざるを得ないのですが、その場合に何を削って、何に時間を使うかがとても重要なポイントになります。

 1つの(ある意味で安直な)方法は、トピックスを限定すること。感染症の勉強で例えると、生物学的な内容だけにして、疫学や法律の話はしない、ということです。もう1つは、ケーススタディとか、ディスカッションとか、より演習的な形式(教員と学生、あるいは学生同士での相互作用が生じやすい形式)を採り入れることです。演習的な形式の方が、教員にも学生にも充実感を与えてくれることは間違いないのですが、いかんせん、大人数の講義では難しい。大学院の講義では、これができるのですが。

 いずれにしても、必要になるのは、学生に講義とは別の時間に本を読んでもらって、基本的な知識を身につけてもらうことです。ところが、よく言われるように、これをしているのが欧米の大学で、していないのが日本の大学です。実は、日本の大学でも、講義以外の時間に予習や復習をすることが一応の決まりになっているのですが、実態としては、日本の大学生の読書量はきわめて少ないようですし、教員も受講者が本を読んでいないことを当然のものとして受け入れています。

 こうして、学生は本を読まず、教員はトピックスの限定された講義をするために、学生の知識は体系だったものになりにくい。つまり、個々バラバラのトピックスの寄せ集めで、それらが有機的につながった〈知識のネットワーク〉が育ちにくいということが、日本の大学の講義の大きな欠陥ではないでしょうか。

 ということで、当たり前のような話ですが、その講義に関連した本をできる限り範囲を広げてたくさん読むことが、講義という仕組みで知識を身につけるには不可欠だということです。



2020年9月24日木曜日

大学での勉強の仕方:懐疑主義というものについて

  高校までの勉強の仕方に慣れている人にとって、大学での勉強の仕方は分かりにくいものでしょう。様々な授業の中からどれを履修するかを選ばないといけませんし、いざ授業に出てみても、何をどこまで覚えるべきかが判然としません。試みに、教授に向かって「どの程度のことまで覚えておけばいいんですか?」と聞いてみたら、「試験では基本的なことしか問いません。あとは自分で考えてください」とか、ふわっとしたことを言われそうです。というか、私はいつもそう答えています。

 そもそも大学では、どの科目で何を教えるべきかを、国が決めていることはありません。高校の生物学には学習指導要領がありますが、大学の生物学にはそんなものはありません。(ただし、医師や看護師のように、国家試験の受験資格を取ることができる課程では、国家試験の出題基準とか「指定規則(必ず勉強させるべき事項などを定めた法令)」などが決められています。が、これはあくまで〈医師や看護師などの国家資格を取るために十分な勉強〉の指定であって、〈医学や看護学の勉強はそれだけで一生オッケーです〉というわけではありませんよね。)

 むしろ、勉強の範囲や学び方が指定されている方が特殊なのだ、と考えてください。大学での勉強というより、「学問」というもの、つまり人間にとっての「知の探求」というものは、自由なものです。どんな学問分野にも、そこには荒野のように無限に広がる知識があるわけで、その中で何が重要で、何が重要でないかを、どこかの偉い人が決めて、他の人がそれに従って覚えるというのは、おかしなことでしょう。国の役人であれ、ノーベル賞を取った学者であれ、人間の知の探求の自由を抑える資格のある「偉い人」など、どこにも存在しません。

 知識は絶えず更新され、どんどん古くなっていきます。知識の更新、ひいては学問の発展に、絶対的に必要なのが、良質の懐疑主義 scepticismです。これこそが大学の勉強の核にあるものなのですが、これがなかなかの難物なのです。

 ここでいう懐疑主義とは、簡単に言えば〈疑ってかかる態度〉〈鵜呑みにしない態度〉です。これが難しいのは、人の感情を害することがままあるからです。授業の最中に、学生が突然、「先生が今おっしゃったことは、どんな根拠に基づいているのでしょうか?」と聞いたとします。いくら丁寧な言い方でも、教授は「はあ !?」と、困惑するか、場合によってはキレるかもしれません。

 どんなに穏やかな性格の人でも、教授はその瞬間、「自分の言うことを信じてくれないのか」と思うわけです。さて、ここからが良心的な学者であるか否かの分かれ目です。良心的な教授ならば、こう考えるはずです。「ええっと、根拠は何だっけ? 出典はどこにあったっけ?」。これは説明責任 accountability を果たそうとする態度です。どんなに偉い先生でも、自分の専門分野について何かを聞かれたら、根拠を持って答える責任があります。

 その教授が「ごめんなさい、今は思い出せません。あとでしっかり調べてお答えします」と答えても、あまり責めないであげてください。人の頭の中に入れておける(しかも自由自在に取り出せる)知識の量なんて限られていますし、この先生は、説明責任を果たそうとしているのですから。

 これに対して、説明責任から逃げてしまう人の心の中では、「私を誰だと思っているんだ」「私を信じろ」「私を信じないキミが悪いんだ」「お前は落第だ!」等々と、悪しき感情がバベルの塔のように築かれていきます。これは、懐疑主義の真逆の態度、権威主義 authoritarianismです。権威主義は、学問の命脈である自由というものを消してしまう、まことに忌むべきものなのですが、学問の世界、勉強の世界では、けっこう大手を振って歩いています。

 おそらくその理由は、懐疑主義よりも権威主義の方が、少なくとも学問をやっていく上ではずっと楽だからでしょう。懐疑主義を徹底しようと思ったら、根拠を求めて調べたり、勉強したりする必要が生じます。どんなに偉い先生でも、最新の知識を勉強し直す必要があります。これに対して、権威主義者には勉強なんて要りません。「オレを信じろ」「オレの言うことを聞いておけば悪いようにはしない」と、脅したりすかしたりしていれば済むからです。

 さてさて、ここまで教える側のことばかり述べてきましたが、学ぶ側はどうでしょう? 高校までの勉強の中に、権威主義の要素がけっこうあったかもしれないんですが、お気づきでしたか? 先生や親に言われたから勉強する。決められた教科書で決められた内容だけを勉強する。教科書に書かれている内容を、疑うことなく鵜呑みにする。これらはぜんぶ権威主義的な勉強の仕方です。

 長くなってしまったので、ここでお終い。今日は「大学の勉強の核は懐疑主義だ」ということを強調しておきたいと思います。





2020年9月18日金曜日

感染症対策と人との交流

 担任の立場で、新潟大学医学部保健学科看護学専攻1年生の皆さんへ。

今日の基礎看護学実習Iは3つの教室に分かれて行われましたが、2つしか回れませんでした。お目にかかれなかった皆さん、すみませんでした。

 今回お伝えしたかった内容を、実際にお話ししたことにかなり捕捉して、書いておきます。一言でいえば、「しっかり感染症対策をした上で、人との交流をしてほしいな」ということです。

 大学時代って、一生を左右するような「人との出会い」がある・・・あるはず、あってほしい時期ですよね。友人、親友、先輩、後輩、恋人、生涯のパートナー・・・。特に医学部保健学科では、同じ医療や看護の道を志した人が集まっているので、仕事のこと、生き方のことなど、深いところまで共有できる人がきっといるはずです。4年間という限られた時間は、卒業の時に振り返ると、「とても短かった」と感じる人が多いものです。そのどこかで、皆さんの人生にとって決定的と言えるような出会いがあることを願っています。

 しかし、今回のコロナ・・・正しく言えば、SARS-CoV-2という名前のウィルスが引き起こすCOVID-19という感染症・・・はいやらしいですね。特に、症状が軽い(あるいはまったくない)人が、多数の人に感染を広げてしまう感染症なんて、ほとんど聞いたことがありません。おかげで、「他者と関わる」という、人間にとって最も基本的な営みがダメージを受けてしまっておるわけです。人との交流をしてほしいと言いながら、感染症対策も同時にしっかりしてくださいねと、相矛盾するお願いを、担任としてせざるを得ないわけです。

 皆さんは、医学部生・看護学生ですので、病院などの医療福祉施設という、感染症に対してとても脆弱な場所に、このウィルスを持ち込んでしまうリスクをもっています。最近の状況では、重症化率や致死率が、第一波のころと比べて低いらしいことが分かってきています(おそらく、当時は感染者の多くを把握できなかったため、致死率などが高く計算されたようです)。それでも、様々な疾病の治療を受ける患者さんや、高齢者などがいる場では、SARS-CoV-2は恐るべきウィルスであることに変わりはありません。

 そこで、皆さんには、この難しい状況の中で、「感染症対策」と「人との交流」という二つのミッションを達成すべく、賢く振る舞ってほしいと思います。対面式の演習、部活やサークル、アルバイト等々、交流の場が少しずつ増えてきます。そんな中で、具体的に何をどう注意すればよいのか。医学部生のためのガイドラインが、こちらのサイトに掲載されています。必要な情報(なおかつ、最新の情報)を確認するようにしてください。

 また、クラスでは、Zoom形式のほか、対面式でも交流会を行うことができます。クラス委員の皆さんなどを中心に、担任に希望を出していただければ、場所や方法などを考えます。

 一緒に困難に立ち向かった絆は深いものになると信じています。