2021年6月15日火曜日

便宜的な仮説というもの

  だいぶ昔のことになりますが、生物学とか、哲学とか、あれやこれやを手探りで勉強しようともがいていたころに、アメリカの人が書いたものを読んで、けっこう感心したことがありました。それは「便宜的にこれこれの仮定を設けておく。そうすると、複雑な現象をある程度割り切って説明できる」という態度というか、構え方です。「プラグマティズム」といわれるものなのでしょうが、これが、自然科学から人文・社会科学にいたるまで、あまねく広がっていて、学部から大学院に進みながら、何をどう勉強したらいいのか分からなくなっていた私にとっては、大きな救いになったのでした。

 生命倫理学の中に、それなりによく知られた「四原則」というのがありますが、これぞ便宜的な仮説の好例です。四原則は、自律尊重原則、無危害原則、恩恵原則、正義原則の4つですが、これらは絶対的な真理というようなものではなく、取りあえず、この4つを、誰もが共有可能なものとして仮置きしておけば、複雑な生命倫理の問題をクリアに説明できるはずだ、というものです。「クリアに説明できる」というのは、日本のお役所あたりで好まれる言葉でいえば「論点整理」ができるということ、つまり、対立しあう考え方を、依って立つ原則の違いで説明できる、というようなことです。

 四原則とは、倫理の本質を言い表す真理のようなものではなく、対立しあう様々な倫理学説を並列させるための便宜的なものにすぎません。これらを考えた人たち自身が口をそろえて言っていますし、そもそもその「中身」を考えればよくわかります。四原則とは、要するに、「自分で決めよ」「害を与えるな」「益を与えよ」「公平公正であれ」というものです。どれもごく当たり前のことで、有り難みも神秘性も感じないでしょう。20歳代の後半、生命倫理学を学んでいた自分にとって、ビーチャムとチルドレスの有名な教科書『Principles of Biomedical Ethics』を読んだときに、NHKのチコちゃんのように、「つまんねーな」と感じたものでした。

 しかし、チコちゃんがこの台詞を吐くのは、回答者が正解を出したときですね。同じように、彼らの四原則は、「正解」とまではいえないにしても、混沌とした問題を整理するための道筋を示すものではありました。四原則を使えば、複雑な生命倫理問題の論点整理が簡単にできるのです。安楽死を認めるのは自律尊重原則に則った意見で、それに反対するのは無危害原則に則った意見だ、という具合です。あるいは、出生前検査による妊娠中絶を認めるか否かは、自律尊重原則を女性に適用する立場をとるか、あるいは将来出生する可能性を持つ胚・胎児にも適用する立場をとるかの違いだと言えてしまいます。今の問題に例を取れば、コロナでPCR陽性となったがん患者の手術を延期してよいかは、無危害原則と恩恵原則と正義原則の3つを比較考量して、最終的に自律尊重原則で決めればよいという単純な図式を描くことができます。手術の効果(恩恵原則)と、延期で患者におよぶリスク(患者にとっての無危害原則)と、スタッフや他の患者におよぶ感染のリスク(患者以外の人にとっての無危害原則)と、公平さ(治療を受ける権利の侵害にならないか)、公正さ(意思決定の手続が透明かつ利益相反を考慮したものであるか)を勘案した上で、最善と思える方法を考え、最終的には患者本人のインフォームド・コンセント(あるいはインフォームド・チョイス)で決定する、というようなことです。

 もちろん、このような整理の仕方そのものが粗雑だとか、単純化しすぎているという批判はあり得ます。しかし、生命倫理の問題をめぐる論争を、こんなふうにクリアカットに図式化してみせられる方法は、それまで誰も示すことができなかったものでした。便宜的な仮説にすぎないものが、人々の見解の不一致の全体図を描いてみせてくれる。これだけでも、ノーベル平和賞に値するものだと言っていた人がいました。論争があるときに、対立しあう陣営のどちらか一方に加担するのではなく、対立図式を描いてみせて、それによって自軍と敵軍とを俯瞰することができれば、和平に一歩近づけるかもしれません。そう考えれば、便宜的な仮説というものは、案外と価値のあるもので、そういうものを作ろうという知恵を、もっと様々な問題解決のために、はたらかせてもよいのかもしれません。政治の問題でも、身近な困り事でも。


2021年6月11日金曜日

オンラインでの人とのつながり

 コロナが人類に残すであろう遺産はいろいろとありそうですが、いますでに実感できているものが、オンラインでの人とのつながりというものでしょう。コロナ前から隔世の感を抱くような例だけ挙げるなら、遠隔地からの大学院生を受け入れたことと、ハンセン病療養所に暮らす人たちとオンラインで会議を行ったこと、の2つです。

大学院教育
 私のような研究テーマであれば、オンライン大学院で大きな支障なく大学院教育が行えているように感じています。通常の場合でも、大学院生とは週に一度ほどの面談と、人数にもよりますが、やはり週に一度ほどのゼミを行って、かれらが研究の計画立案から倫理審査の申請へと進めていけるように支援します。最初の段階で院生が行うのは、研究の構想を具体的なものにしていくこと、背景となる先行研究を文献検索によって集めて自分の研究の学術的な位置づけを明確なものにすること、などです。
 この課程は、自分の頭で考え、文献データベースを調べ、指導教員やゼミの仲間と対話をすることで進んでいくものですが、コロナ前と今とを比べてみると、「対話」を対面で行うか、オンラインで行うかの違いだけがある、ということになります。そして今のところ、この違いによるデメリットはあまり大きくはないのではないかという気がしています。
 それよりも、日本全国どこからでも学ぶことができるということ、すなわち、生活の場を移して家族から離れたり、今の仕事を中断したりすることなく学べるというのは、とても大きなメリットではないかと思います。時差と通信環境の課題さえ克服できれば、他の国からでも進学してもらえるでしょう。

ハンセン病療養所の人たち
 ハンセン病療養所は、かなり徹底した面会制限を行っているようで、コロナ前に行っていた療養所外の人たちとの交流活動がほとんど途絶しています。入所者が非常に高齢で、持病をお持ちの方も多いために、致し方のないことと思います。しかし、それにしても、何という皮肉な状況が生じているのだろうと、嘆かざるを得ません。
 ハンセン病という感染症によって・・・否、そうではなく、この感染症に対して行われてきた不合理な政策によって、彼らは家族や故郷から切り離された人生を歩んできました。長い年月におよぶ隔離生活の末に、らい予防法が廃止され、国賠訴訟に勝ったことで、療養所の外の人たちとの交流が活発になり、なかには若い世代の来訪者と子や孫のような関係を築いた人も多数いらっしゃいました。それが、このコロナ禍で、ぷっつりと途絶えてしまいました。
 私が関わっているハンセン病市民学会は、研究のためだけの学会ではなく、交流や啓発をも目的にした集まりです。その活動の一環で、最近になって、回復者の方々とオンラインで話し合うことができました。コンピュータなどの扱いが苦手だとおっしゃる方が多いのですが、療養所のスタッフなどが支援をして、オンライン会議のためのソフトウェアや、マイクやヘッドフォンの準備などを行っていただいているようでした。情報技術の支援というものは、この状況では非常に価値あるものだと実感しました。

一緒の空間にいなければできないこととは?
 さて、一緒の空間にいなければできないこととはどんなものかと、あらためて考えさせられています。モニターに映る像ではなく、本物の全身像を視界に入れて、言葉だけに頼らないコミュニケーションを行って、一緒にご飯を食べて、お酒を飲んでと、「懐に飛び込む」とか「同じ釜の飯を食う」というような関わりは、オンラインでは難しいでしょう。オンライン飲み会も、あまり楽しくはないと感じる人が多いと聞いています。
 しかし、少なくとも院生と教員との間では、そのようなことができなくても、ほとんど支障はないと、私は思っています。もちろん、学生どうしが友達や仲間になる上では、是非ともあった方がよいものに違いありません。ただ、私の研究室に限らず、日本の医療系の大学院生の多くが、現場で仕事をしながら入学してくる、いわば「すっかり大人」な人たちなので、相互に尊重しあって助け合うという関係性は、実空間でのコンタクトがなくても作ることができるのかもしれません。
 ハンセン病回復者との交流はどうでしょうか。若い世代の人たちには、回復者の皆さんの姿を生で見て、声を生で聞いて、できれば手を取り体を動かすのを手伝ったりして関わってほしいと、切に思います。その一方で、このパンデミックの中にあって、大袈裟に言えば市民的自由を手に入れるための手段として、デジタル機器を活用して様々な人と関われることも、彼らの重要な権利だとも思います。そのための支援は、実際のケアに当たっている人に求められる大切な仕事になっています。

スプーンのように使える技術の進歩に期待したい
 それにしても、最近のオンライン会議のソフトウェアはとてもよくできていて、通信環境が多少悪くても、途中で途切れることがあっても、会議を続行することが可能になっています。しかし、インターフェイスにはまだまだ改良の余地があるように思います。理想としては、デジタル機器に触ったことのない人が、他人の支援がなくても使えることです。そんなことなどあり得ないでしょうか? 技術者の知恵を磨けばできるはず、と信じたいところです。例えばスプーンは、触ったことがない人でも使えるでしょう。「どうしてスプーンは、使い方を学ばなくても使えるのだろうか」と、考えてみる価値はあるのではないでしょうか?