高校までの勉強の仕方に慣れている人にとって、大学での勉強の仕方は分かりにくいものでしょう。様々な授業の中からどれを履修するかを選ばないといけませんし、いざ授業に出てみても、何をどこまで覚えるべきかが判然としません。試みに、教授に向かって「どの程度のことまで覚えておけばいいんですか?」と聞いてみたら、「試験では基本的なことしか問いません。あとは自分で考えてください」とか、ふわっとしたことを言われそうです。というか、私はいつもそう答えています。
そもそも大学では、どの科目で何を教えるべきかを、国が決めていることはありません。高校の生物学には学習指導要領がありますが、大学の生物学にはそんなものはありません。(ただし、医師や看護師のように、国家試験の受験資格を取ることができる課程では、国家試験の出題基準とか「指定規則(必ず勉強させるべき事項などを定めた法令)」などが決められています。が、これはあくまで〈医師や看護師などの国家資格を取るために十分な勉強〉の指定であって、〈医学や看護学の勉強はそれだけで一生オッケーです〉というわけではありませんよね。)
むしろ、勉強の範囲や学び方が指定されている方が特殊なのだ、と考えてください。大学での勉強というより、「学問」というもの、つまり人間にとっての「知の探求」というものは、自由なものです。どんな学問分野にも、そこには荒野のように無限に広がる知識があるわけで、その中で何が重要で、何が重要でないかを、どこかの偉い人が決めて、他の人がそれに従って覚えるというのは、おかしなことでしょう。国の役人であれ、ノーベル賞を取った学者であれ、人間の知の探求の自由を抑える資格のある「偉い人」など、どこにも存在しません。
知識は絶えず更新され、どんどん古くなっていきます。知識の更新、ひいては学問の発展に、絶対的に必要なのが、良質の懐疑主義 scepticismです。これこそが大学の勉強の核にあるものなのですが、これがなかなかの難物なのです。
ここでいう懐疑主義とは、簡単に言えば〈疑ってかかる態度〉〈鵜呑みにしない態度〉です。これが難しいのは、人の感情を害することがままあるからです。授業の最中に、学生が突然、「先生が今おっしゃったことは、どんな根拠に基づいているのでしょうか?」と聞いたとします。いくら丁寧な言い方でも、教授は「はあ !?」と、困惑するか、場合によってはキレるかもしれません。
どんなに穏やかな性格の人でも、教授はその瞬間、「自分の言うことを信じてくれないのか」と思うわけです。さて、ここからが良心的な学者であるか否かの分かれ目です。良心的な教授ならば、こう考えるはずです。「ええっと、根拠は何だっけ? 出典はどこにあったっけ?」。これは説明責任 accountability を果たそうとする態度です。どんなに偉い先生でも、自分の専門分野について何かを聞かれたら、根拠を持って答える責任があります。
その教授が「ごめんなさい、今は思い出せません。あとでしっかり調べてお答えします」と答えても、あまり責めないであげてください。人の頭の中に入れておける(しかも自由自在に取り出せる)知識の量なんて限られていますし、この先生は、説明責任を果たそうとしているのですから。
これに対して、説明責任から逃げてしまう人の心の中では、「私を誰だと思っているんだ」「私を信じろ」「私を信じないキミが悪いんだ」「お前は落第だ!」等々と、悪しき感情がバベルの塔のように築かれていきます。これは、懐疑主義の真逆の態度、権威主義 authoritarianismです。権威主義は、学問の命脈である自由というものを消してしまう、まことに忌むべきものなのですが、学問の世界、勉強の世界では、けっこう大手を振って歩いています。
おそらくその理由は、懐疑主義よりも権威主義の方が、少なくとも学問をやっていく上ではずっと楽だからでしょう。懐疑主義を徹底しようと思ったら、根拠を求めて調べたり、勉強したりする必要が生じます。どんなに偉い先生でも、最新の知識を勉強し直す必要があります。これに対して、権威主義者には勉強なんて要りません。「オレを信じろ」「オレの言うことを聞いておけば悪いようにはしない」と、脅したりすかしたりしていれば済むからです。
さてさて、ここまで教える側のことばかり述べてきましたが、学ぶ側はどうでしょう? 高校までの勉強の中に、権威主義の要素がけっこうあったかもしれないんですが、お気づきでしたか? 先生や親に言われたから勉強する。決められた教科書で決められた内容だけを勉強する。教科書に書かれている内容を、疑うことなく鵜呑みにする。これらはぜんぶ権威主義的な勉強の仕方です。
長くなってしまったので、ここでお終い。今日は「大学の勉強の核は懐疑主義だ」ということを強調しておきたいと思います。