2021年2月3日水曜日

感染症法の精神をゆがめないで

今日は残念なニュースが報じられました。感染症法が「改正」(私に言わせれば法律の基本精神を台無しにする大改悪です)され、入院を拒んだ人に対する罰則規定が盛り込まれました。

現行の感染症法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)は、ハンセン病対策のような人権侵害を背景に、患者の人権に配慮しようという精神に基づいて、1999年に施行されました。この法律では、感染症を病気の性質や感染ルートなどによって分類し、対応方法を具体的に定めています。

この法律の第一九条は、最も危険な感染症である「一類感染症」(エボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱などの7種類)では、都道府県知事が患者に自主的に入院するよう勧告し、それに従わない場合には「入院させることができる」と、知事の権限で強制入院させられる規定になっています。しかし、これまでは、この強制入院には罰則がありませんでした。

罰則がなければ法律が有効に機能しないではないか、と思われるでしょうか? しかし、そう単純な話ではないのです。

この法律のもっと前の方、第三条に、国と方公共団体の責務が規定されています。その内容は多岐にわたり、感染症に関する正しい知識の普及、情報の収集・整理・分析・提供、研究の推進、検査能力の向上、予防に係る人材の養成をしつつ、「感染症の患者が良質かつ適切な医療を受けられるように必要な措置を講ずるよう努めなければならない」とされています。

この「 」で引用した部分は、世界医師会の「患者の権利に関するリスボン宣言」の第一項に規定されている「良質の医療を受ける権利」というきわめて基本的な患者の権利を保障する国の責務です。つまり、国と方公共団体の責務である「良質の医療を受ける権利」が保障されている前提の上で、強制入院を含む具体的な規定が生きてくるというのが、今日の医療倫理の考え方に基づく法規制の基本精神であり、日本の感染症法もそのような立て付けになっているのです。

果たして、現状はどうでしょうか? 新型コロナウィルス感染症の感染者の方々は、「良質の医療を受ける権利」を与えられているでしょうか? 大都市圏を中心に、入院できない方々が多数いることが、現在の最大の課題になっています。このように、「良質の医療を受ける権利」が十分に保障されていないままの状況で、罰則が導入されることになりました。これは、感染症法の立て付け、あるいは法の精神を、根底から覆すものと言わざるを得ません。

「懲役」や「罰金」のような刑事罰ではなく、「過料」という行政罰になったのだから、「これくらいならばよいか」と思う方もいるでしょう。実際に、マスメディアも、主だった野党も、そのように受け流してしまった感があります。しかし、強調しておきたいのは、過料は「間接的な強制執行システム」である、という点です。

行政法学者の原田尚彦東京大学名誉教授は、過料について、形式的に見れば過去の義務違反に対する制裁だが、実質的にはその威嚇的効果によって行政上の義務の実現を間接的に強制し、その確保を図ろうとするもので、機能の面からみると行政上の強制執行を補完する作用であると述べています(『行政法要論』、学陽書房)。

「威嚇的効果」という表現にドキッとします。なぜなら、これこそは、日本のハンセン病政策の本質にあったもので、私たちが1999年の感染症法で、これとは反対の方向へと歩み出す決意をしたものにほかならないからです。皆さんは、「無らい県運動」という言葉を聞いたことがありますか? ご存じなければ、ネットで検索してみてください。

これは、隣近所に隠れひそんでいるハンセン病患者を、保健所や警察などに通報して、療養所に隔離させようという、監視制度のようなものでした。「運動」という妙な名前が付いているのは、国が都道府県に競わせて、ハンセン病患者をゼロにしようという運動だったからです。「患者をゼロにする」といっても、治療によってゼロにするのではなく、人里離れた療養所に送り込み、一生涯隔離することでゼロにするのです。

ハンセン病政策の誤りは、この「威嚇的効果」を国策として推進したがゆえに、ほんらい「良質の医療を受ける権利」をもち、保護されるべき存在である感染者を、あたかも「厄介者」であるかのようなイメージを国民に植えつけ、療養所への入所を拒んだりした反抗的な感染者を「犯罪者」扱いするという「懲罰感情」さえも呼び起こしてしまったということにあります。

「罰則」を盛り込むことで感染症政策が効果的になるという発想には、エビデンス(科学的な裏づけ)も立法事実(立法的判断の基礎となっている事実)もありません。むしろ感染症の歴史が示しているのは、強制力を働かせると、患者が隠れたり、逃げたりしてしまうことが起こるということです。検査で陽性との結果が出れば、入院しなければならない。それならば、検査を受けず、白黒つけずに放っておこうと思う人が出てくるかもしれませんし、辛い症状を抱えていても、我慢してしまう人がいるかもしれません。

病気になった人に、医療者側から見て望ましい行動をとっていただくのは、必ずしも簡単なことではありません。そこには、いくつもの影響因子があり、ハードルがあります。その中のどれを下げることができるかを戦略的に考えていく必要があります。そのためには、医療の中心には「患者の権利」(これには「良質の医療を受ける権利」だけではなく、「情報を得る権利」「自己決定の権利」など、いくつもの重要なものがあります)が置かれ、これを保障することが最大の使命なのだという認識を、社会全体で共有する必要があります。

医療機関や社会が患者に提供できる資源には、限界もあります。だからこそ、社会全体で協力して、何ができ、何ができないかのコンセンサスを丁寧に作っていく必要があります。感染症の場合、感染した人(その中には無症状の人から重症化した人まで、様々な人が含まれます)、医療従事者、行政関係者、そして一般国民という、立場の異なる人たちが、同じ方向を向いて、連帯し、協力してやっていくことこそが、感染症対策では必要です。分断され、敵対しあっているようでは、うまくいくはずがありません。罰則規定が、感染者とそうでない人の分断をもたらしてしまうことを心配しています。

運営委員として関わっているハンセン病市民学会は、この件について「政府、国会は「過料」修正案も撤回し、最重要の問題の審議に取組め」という声明を出しています。ぜひご一読ください。