2022年3月7日月曜日

Остановите убийства

  1965年生まれである私が生きてきた時間のなかで、世界史上の大事件がいくつも起こりました。その中には、それが終わってから知ったものもたくさんあります。

 私が生まれる前からベトナム戦争が始まっていて、1973年にアメリカ軍が撤兵したこと。この戦争が、米側22万5000人、北ベトナム・解放戦線側97万6700人と推定される戦死者をもたらしたこと。1975年にカンボジアでポル・ポト政権が生まれ、170万人ともいわれる人々の命を奪ったこと。20世紀の文明を大きく揺るがせたこれらの事件について、小学生だったころの私には、リアルタイムの記憶はほとんどありません。

 1979年にソ連軍がアフガニスタンへ侵攻し、1989年に撤退するまでの経緯については、ほんの一部ですが、記憶の中に残っています。この年の終わりに、「ベルリンの壁の崩壊」があったことについては、その前後の出来事も含めて、かなり鮮明な記憶があります。それにしても、実際に生じた出来事の全容からすれば、ほんの一部の報道で見聞きした断片を知っているにすぎません。

 それでも、中学生くらいになると、学校で勉強した歴史の知識とか、自分の中に生まれていった思想のようなものに照らして、これらの事件の意味や背景を理解しようとし、感情を揺さぶられるようになります。当然ながら、いずれの事件も報道を通して情報を得るのみで、直接「目撃」したわけでも「巻き込まれた」わけでもありません。

 いまウクライナで起こっていることに、これまでのどの大事件よりも感情を揺さぶられているように感じていますが、その理由の一つは、情報を得る大きな手段がマスメディアしかなかったところに、SNSが加わったことにあると思います。発信者から仲介者のフィルターを通さず、直接届く情報は、その正確さやバイアスに留意しなければならないとしても、マスメディア(とりわけ独特な組織文化をもつ日本のマスメディア)による「調整」を経ないがゆえの生々しさがあります。

 翻訳ソフトの進歩もあって、ウクライナ語やロシア語で書き込まれるテキストを理解することもできます。家族や友人が殺されたというテキストやビジュアルの投稿は、いま目の前で起こったかのような錯覚すら覚えます。SNSにより、プーチンが開戦宣言を発したことを、ほぼリアルタイムで知り、そのテキストを読みました。その長広舌とご都合主義の歴史観・国家観は、その後に待ち受ける事態の悲劇性を予感させてあまりあるものでした。

 中学生のころから抱いている私の理想のなかに、非暴力の思想というものがあって、戦争などというものは言うまでもなく、武力を使うことそのものに、倫理的な正当性を見出せずにいます。振り下ろされる刀を避けたり、盾で受けとめることはしながらも、こちらも武力を用いて、刀を振るい続けるその人の生命を絶ってしまうことについては、これをよしとしないのが非暴力の思想です。

 百歩譲って、武力を使う人(軍に属する戦闘員)どうしでの殺し合いに限って認めようとするのが、戦争の法(law of war)の考え方でしょう。しかし、非暴力の思想からすれば、戦争の法は矛盾に満ちています。軍とは何か。軍に「属する」とはどういうことか。もっと言えば「国」とは何か。軍は国に属するものか。「国民」とは何か。国民は国に属するものか・・・。

 非暴力の思想からすれば、国も軍も、人の生命の上位にあるものではなく、何人にも生命ある他の人を殺傷する権利はなく、生命ある人が何に属していようと(属した気になっていようと)、とにかく「殺されずにいる権利」があると考えます。だから、戦争のような、生命ある人の殺害を国が公認する「事業」は認めようがないものですし、死刑も認めません。非暴力の思想は、相手の理不尽で自分(あるいは自分の愛する人)が殺されることは受け入れる(よしとするのではなく、仕方なく諦めるのです)のに、その相手(殺す人)が殺されることを受け入れないのです。

 もちろん、非暴力の思想で世界の戦争や紛争がなくなるわけもなく、実際に愛する人を殺された人の気持ちをどうするのかと聞かれれば、黙るほかはありません。戦時に非暴力の思想を唱えた人は、非愛国的と蔑まれ、捕らえられ、殺される。そういう歴史が日本にもありました。

 ただ言えるのは、独裁者プーチンと、ロシア指導部の人たちの頭の中に咲いている地政学的物語には、たくさんの人の生命を犠牲にしてこの世界に顕現せしむるべき価値は些かもないということのみです。そのことがあまりに明白なために、憂鬱にならざるを得ません。


2021年12月20日月曜日

昔好きでもなかった曲が刺さる

  最近、大瀧詠一氏の音楽をよく聴いています。直接の理由は、音楽のストリーミング・サービスで聴けるようになったことですが、もっと深い理由として、自分の心の経年変化があるのだろうと思います。

 いまから40年近くもの昔、高校の部室(伝統ある白虹会という名の美術部の古い木造の建物)で、先輩たちが延々と流していたのが「A LONG VACATION」。このアルバムに描かれているイラストのように、アメリカ西海岸風というか、きれいなものばかりを写しているというか、とにかく自分にとってリアリティを感じない「画風」の楽曲ばかりで、どうものめりこめないのでした。が、上下関係の厳しい部活動で、先輩たちが有無を言わさず来る日も来る日もカセットテープで流し続けるという、放課後の「音の壁」。そのなかで、私たちは校舎の電気が完全に消される時間がくるまで、石膏像の木炭デッサンをしていました。耳で拒否しても、体表から入ってきてしまうようなぐあいでした。

 当時の私は、来る日も来る日もビートルズを聴いていました。実は、ビートルズも、美術室の部室で先輩たちがガンガンかけていたのでしたが、こちらは完全に自分自身の動機で聴き始めたのでした。高校1年生の時のこと。ビートルズのことなどまったく知らなかった私ですが、ある日、同級生の1人がものすごく落ち込んでいる様子だったので、「どうしたの?」と声をかけました。彼は、「ジョン・レノンが死んだ」と。たぶん、私は「それ、誰?」というような言葉を返したのだろうと思います。彼は「知らなければいいよ」としか答えてくれませんでした。その様子が気になって、行ったこともないレコード店に出かけて、一枚買ってみようと、聴いたこともないままに一枚のシングル・レコードを買いました(当時は「視聴」なんてことはできませんでしたし、もちろん、ネットは存在すらしていませんでした)。

 それが「イマジン」でした。いやもう、これはすごいと。若い私は、そこからずっと、かれらの楽曲に完全にのめりこむことになりました。メロディもさることながら、訳詞に書かれている内容に衝撃を受けました。B面に入っている曲(知らない人のためにいいますと、レコード盤のオモテ面=A面を聴いて、裏返してB面を聴くのです!)もまたすごい。「労働者階級の英雄」です。日本の歌謡曲では聴いたこともない政治的な題材で、なおかつ文学者が作る詩にも見劣りしない訴求力の虜になりました。やがて、もっと多様な海外の歌手の楽曲も聴くようになり、洋楽にも不出来の歌詞がたくさんあることを知る一方で、これはもう古典でしょうと思えるような作品に出会って感動したりしていました。一曲だけ例を挙げれば、ボブ・ディランの「はげしい雨が降る」とか。

 そこから長い年月を経て、大瀧氏急逝の報に驚き、その音楽を久しぶりに聴いてみようかと思ったりしたのですが、そのころに、自分の心の変化に気づいたのでした。それはつまり、「こういうものを作った人たち」を、ちょっと離れたところから見つめる視点ができていたことです。「上から目線」に聞こえてしまいそうですが、「ああ、この人たちは、こういうつもりで、こういうことをしたかったんだな」という見方・聴き方をするような感覚です。これらの楽曲を作った人たちが語ったインタビュー記事も読み、多少なりとも彼らの物語というべきものに触れました。そのせいか、高校生の頃にはリアリティを感じられなかった楽曲が、不思議な真実味をもって心地よく耳に入ってくるように思えるのでした。メロディも、歌詞の言葉の一つ一つも、大滝氏の甘めな歌声も、味わい深く、愛おしく思えるのでした。


2021年10月23日土曜日

#わたしも投票します

#わたしも投票しますなど、投票を呼びかける投稿が、ツイッター等でトレンドになっているようです。

私はといえば、選挙ではほぼ例外なく投票をしてきました。しかし、支持政党について言えば、世論調査でいつも最大多数派となる「無党派層」の一員です。特定の政党を常に支持するのではなく、原理原則で投票する、というのが、現在の日本の政治状況ではもっとも適切だと考えているからです。

その原則とは以下の2つです。

1)「現政権が行ってきた政策」への評価
2)「今後の政策」がこうあってほしいという方針

1)は、評価できれば現政権の政党に、できなければ対抗勢力に投票する、というものです。

今の政権についての評価は、私の専門領域に多少とも関連するものに限定しても、首をかしげざるを得ないようなことがいくつもあります。主なものは以下の3つです。

日本学術会議の新会員候補の任命拒否
学問の自由に対する深刻な脅威であり、このような政治慣行が拡大することでより大きな言論の自由の侵害につながる可能性があり、日本学術会議の要望書を全面的に支持してきましたが、いまだに解決の兆しさえ見えません。これについては、大学に身を置く人間として、日本の将来を憂えざるを得ません。日本は科学技術立国しかあり得ない国だと、考えているからです。

・新型コロナウィルス感染症に対する失策
ワクチン供給を極めて速やかに実現したことは評価できます。しかしながら、感染症法の改悪
入院を拒んだ人に対する罰則規定が盛り込まれたことは、この法律の基本精神を台無しにするものです)、布マスクの配布、GoToキャンペーンの実施、オリンピック・パラリンピックの開催などは、明らかに失策でした。これらは明らかに科学的エビデンスに基づかない、おそらくは特定のステークホルダー(利害関係者)の要望に応えたものとおぼしき非合理な施策に見えます。

透明性を欠く政策決定プロセス
今日の公共政策の最も肝要な点は、透明性の確保だと、私は考えています。困難で複雑な課題に対して、どんな政策を打つことが効果的かは、「実際にやってみないとわからない」ものでしょう。そのため、結果として失敗に終わる施策が生じることは、やむを得ないものと思います。肝心なのは、たとえ失敗に終わった施策についても、「誰が、どんな根拠に基づいて、その判断を下したのか」を詳らかにすることです。これには、決定プロセスの細部まで記録に残すことと、それを開示することです。これは思想信条の違いに関わらず、日本を民主主義的な国として維持していくために決定的に重要な原則です。現在の政治状況では、この原則が甚だしく損われていると感じます。

これらは批判すべき点ですが、もちろん評価できる点もあります。ハンセン病の家族訴訟の控訴断念「黒い雨」訴訟の上告断念などは、その最たるものです。

さて、これらを勘案して、総合評価をどう考えるか・・・。

2)については、中島岳志先生が「強権的なウヨク政権、教条的なサヨク運動でもない『リベラル保守』」という記事でわかりやすくまとめてくれています。「リベラルかパターナルか」という軸と、「リスクの社会化(セーフティネットの強化)かリスクの個人化(自己責任)」という軸とで、四象限に分けて政党の基本方針を色分けするものです。この四象限のどこに位置するかは、同じ政党でさえも、党内での勢力争いなどによって揺れ動いているようです。

さて自分はどうか。
「リベラルかパターナルか」については、私はこれまでの人生で、一瞬たりとも「パターナル」な政治をよいと思ったことはないように思いますので、この軸での自分の立ち位置ははっきりしています。

問題は「リスクの社会化(セーフティネットの強化)かリスクの個人化(自己責任)」の方です。こちらは、状況によって、問題によって、多少なりとも揺れ動いてきたように思います。今現在の状況は、日本社会のあちこちに、コロナ禍で困っている人がたくさんいるように思いますので、「リスクの社会化」の方がよいように感じます。もちろん、そのためには財源などの課題があるわけですが、これまでの10年ほど「リスクの個人化」の方針を強めてきて、結果として社会状況がよくなったとも思えません。

ということで、「リベラル」で「リスクの社会化」を求める方針で、私は投票したいと思います。さて、それはどこの政党か、候補者かをよくよく調べ、現政権への総合評価も考えつつ、投票に出かけることにしましょう。


2021年6月15日火曜日

便宜的な仮説というもの

  だいぶ昔のことになりますが、生物学とか、哲学とか、あれやこれやを手探りで勉強しようともがいていたころに、アメリカの人が書いたものを読んで、けっこう感心したことがありました。それは「便宜的にこれこれの仮定を設けておく。そうすると、複雑な現象をある程度割り切って説明できる」という態度というか、構え方です。「プラグマティズム」といわれるものなのでしょうが、これが、自然科学から人文・社会科学にいたるまで、あまねく広がっていて、学部から大学院に進みながら、何をどう勉強したらいいのか分からなくなっていた私にとっては、大きな救いになったのでした。

 生命倫理学の中に、それなりによく知られた「四原則」というのがありますが、これぞ便宜的な仮説の好例です。四原則は、自律尊重原則、無危害原則、恩恵原則、正義原則の4つですが、これらは絶対的な真理というようなものではなく、取りあえず、この4つを、誰もが共有可能なものとして仮置きしておけば、複雑な生命倫理の問題をクリアに説明できるはずだ、というものです。「クリアに説明できる」というのは、日本のお役所あたりで好まれる言葉でいえば「論点整理」ができるということ、つまり、対立しあう考え方を、依って立つ原則の違いで説明できる、というようなことです。

 四原則とは、倫理の本質を言い表す真理のようなものではなく、対立しあう様々な倫理学説を並列させるための便宜的なものにすぎません。これらを考えた人たち自身が口をそろえて言っていますし、そもそもその「中身」を考えればよくわかります。四原則とは、要するに、「自分で決めよ」「害を与えるな」「益を与えよ」「公平公正であれ」というものです。どれもごく当たり前のことで、有り難みも神秘性も感じないでしょう。20歳代の後半、生命倫理学を学んでいた自分にとって、ビーチャムとチルドレスの有名な教科書『Principles of Biomedical Ethics』を読んだときに、NHKのチコちゃんのように、「つまんねーな」と感じたものでした。

 しかし、チコちゃんがこの台詞を吐くのは、回答者が正解を出したときですね。同じように、彼らの四原則は、「正解」とまではいえないにしても、混沌とした問題を整理するための道筋を示すものではありました。四原則を使えば、複雑な生命倫理問題の論点整理が簡単にできるのです。安楽死を認めるのは自律尊重原則に則った意見で、それに反対するのは無危害原則に則った意見だ、という具合です。あるいは、出生前検査による妊娠中絶を認めるか否かは、自律尊重原則を女性に適用する立場をとるか、あるいは将来出生する可能性を持つ胚・胎児にも適用する立場をとるかの違いだと言えてしまいます。今の問題に例を取れば、コロナでPCR陽性となったがん患者の手術を延期してよいかは、無危害原則と恩恵原則と正義原則の3つを比較考量して、最終的に自律尊重原則で決めればよいという単純な図式を描くことができます。手術の効果(恩恵原則)と、延期で患者におよぶリスク(患者にとっての無危害原則)と、スタッフや他の患者におよぶ感染のリスク(患者以外の人にとっての無危害原則)と、公平さ(治療を受ける権利の侵害にならないか)、公正さ(意思決定の手続が透明かつ利益相反を考慮したものであるか)を勘案した上で、最善と思える方法を考え、最終的には患者本人のインフォームド・コンセント(あるいはインフォームド・チョイス)で決定する、というようなことです。

 もちろん、このような整理の仕方そのものが粗雑だとか、単純化しすぎているという批判はあり得ます。しかし、生命倫理の問題をめぐる論争を、こんなふうにクリアカットに図式化してみせられる方法は、それまで誰も示すことができなかったものでした。便宜的な仮説にすぎないものが、人々の見解の不一致の全体図を描いてみせてくれる。これだけでも、ノーベル平和賞に値するものだと言っていた人がいました。論争があるときに、対立しあう陣営のどちらか一方に加担するのではなく、対立図式を描いてみせて、それによって自軍と敵軍とを俯瞰することができれば、和平に一歩近づけるかもしれません。そう考えれば、便宜的な仮説というものは、案外と価値のあるもので、そういうものを作ろうという知恵を、もっと様々な問題解決のために、はたらかせてもよいのかもしれません。政治の問題でも、身近な困り事でも。


2021年6月11日金曜日

オンラインでの人とのつながり

 コロナが人類に残すであろう遺産はいろいろとありそうですが、いますでに実感できているものが、オンラインでの人とのつながりというものでしょう。コロナ前から隔世の感を抱くような例だけ挙げるなら、遠隔地からの大学院生を受け入れたことと、ハンセン病療養所に暮らす人たちとオンラインで会議を行ったこと、の2つです。

大学院教育
 私のような研究テーマであれば、オンライン大学院で大きな支障なく大学院教育が行えているように感じています。通常の場合でも、大学院生とは週に一度ほどの面談と、人数にもよりますが、やはり週に一度ほどのゼミを行って、かれらが研究の計画立案から倫理審査の申請へと進めていけるように支援します。最初の段階で院生が行うのは、研究の構想を具体的なものにしていくこと、背景となる先行研究を文献検索によって集めて自分の研究の学術的な位置づけを明確なものにすること、などです。
 この課程は、自分の頭で考え、文献データベースを調べ、指導教員やゼミの仲間と対話をすることで進んでいくものですが、コロナ前と今とを比べてみると、「対話」を対面で行うか、オンラインで行うかの違いだけがある、ということになります。そして今のところ、この違いによるデメリットはあまり大きくはないのではないかという気がしています。
 それよりも、日本全国どこからでも学ぶことができるということ、すなわち、生活の場を移して家族から離れたり、今の仕事を中断したりすることなく学べるというのは、とても大きなメリットではないかと思います。時差と通信環境の課題さえ克服できれば、他の国からでも進学してもらえるでしょう。

ハンセン病療養所の人たち
 ハンセン病療養所は、かなり徹底した面会制限を行っているようで、コロナ前に行っていた療養所外の人たちとの交流活動がほとんど途絶しています。入所者が非常に高齢で、持病をお持ちの方も多いために、致し方のないことと思います。しかし、それにしても、何という皮肉な状況が生じているのだろうと、嘆かざるを得ません。
 ハンセン病という感染症によって・・・否、そうではなく、この感染症に対して行われてきた不合理な政策によって、彼らは家族や故郷から切り離された人生を歩んできました。長い年月におよぶ隔離生活の末に、らい予防法が廃止され、国賠訴訟に勝ったことで、療養所の外の人たちとの交流が活発になり、なかには若い世代の来訪者と子や孫のような関係を築いた人も多数いらっしゃいました。それが、このコロナ禍で、ぷっつりと途絶えてしまいました。
 私が関わっているハンセン病市民学会は、研究のためだけの学会ではなく、交流や啓発をも目的にした集まりです。その活動の一環で、最近になって、回復者の方々とオンラインで話し合うことができました。コンピュータなどの扱いが苦手だとおっしゃる方が多いのですが、療養所のスタッフなどが支援をして、オンライン会議のためのソフトウェアや、マイクやヘッドフォンの準備などを行っていただいているようでした。情報技術の支援というものは、この状況では非常に価値あるものだと実感しました。

一緒の空間にいなければできないこととは?
 さて、一緒の空間にいなければできないこととはどんなものかと、あらためて考えさせられています。モニターに映る像ではなく、本物の全身像を視界に入れて、言葉だけに頼らないコミュニケーションを行って、一緒にご飯を食べて、お酒を飲んでと、「懐に飛び込む」とか「同じ釜の飯を食う」というような関わりは、オンラインでは難しいでしょう。オンライン飲み会も、あまり楽しくはないと感じる人が多いと聞いています。
 しかし、少なくとも院生と教員との間では、そのようなことができなくても、ほとんど支障はないと、私は思っています。もちろん、学生どうしが友達や仲間になる上では、是非ともあった方がよいものに違いありません。ただ、私の研究室に限らず、日本の医療系の大学院生の多くが、現場で仕事をしながら入学してくる、いわば「すっかり大人」な人たちなので、相互に尊重しあって助け合うという関係性は、実空間でのコンタクトがなくても作ることができるのかもしれません。
 ハンセン病回復者との交流はどうでしょうか。若い世代の人たちには、回復者の皆さんの姿を生で見て、声を生で聞いて、できれば手を取り体を動かすのを手伝ったりして関わってほしいと、切に思います。その一方で、このパンデミックの中にあって、大袈裟に言えば市民的自由を手に入れるための手段として、デジタル機器を活用して様々な人と関われることも、彼らの重要な権利だとも思います。そのための支援は、実際のケアに当たっている人に求められる大切な仕事になっています。

スプーンのように使える技術の進歩に期待したい
 それにしても、最近のオンライン会議のソフトウェアはとてもよくできていて、通信環境が多少悪くても、途中で途切れることがあっても、会議を続行することが可能になっています。しかし、インターフェイスにはまだまだ改良の余地があるように思います。理想としては、デジタル機器に触ったことのない人が、他人の支援がなくても使えることです。そんなことなどあり得ないでしょうか? 技術者の知恵を磨けばできるはず、と信じたいところです。例えばスプーンは、触ったことがない人でも使えるでしょう。「どうしてスプーンは、使い方を学ばなくても使えるのだろうか」と、考えてみる価値はあるのではないでしょうか? 










2021年2月3日水曜日

感染症法の精神をゆがめないで

今日は残念なニュースが報じられました。感染症法が「改正」(私に言わせれば法律の基本精神を台無しにする大改悪です)され、入院を拒んだ人に対する罰則規定が盛り込まれました。

現行の感染症法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)は、ハンセン病対策のような人権侵害を背景に、患者の人権に配慮しようという精神に基づいて、1999年に施行されました。この法律では、感染症を病気の性質や感染ルートなどによって分類し、対応方法を具体的に定めています。

この法律の第一九条は、最も危険な感染症である「一類感染症」(エボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱などの7種類)では、都道府県知事が患者に自主的に入院するよう勧告し、それに従わない場合には「入院させることができる」と、知事の権限で強制入院させられる規定になっています。しかし、これまでは、この強制入院には罰則がありませんでした。

罰則がなければ法律が有効に機能しないではないか、と思われるでしょうか? しかし、そう単純な話ではないのです。

この法律のもっと前の方、第三条に、国と方公共団体の責務が規定されています。その内容は多岐にわたり、感染症に関する正しい知識の普及、情報の収集・整理・分析・提供、研究の推進、検査能力の向上、予防に係る人材の養成をしつつ、「感染症の患者が良質かつ適切な医療を受けられるように必要な措置を講ずるよう努めなければならない」とされています。

この「 」で引用した部分は、世界医師会の「患者の権利に関するリスボン宣言」の第一項に規定されている「良質の医療を受ける権利」というきわめて基本的な患者の権利を保障する国の責務です。つまり、国と方公共団体の責務である「良質の医療を受ける権利」が保障されている前提の上で、強制入院を含む具体的な規定が生きてくるというのが、今日の医療倫理の考え方に基づく法規制の基本精神であり、日本の感染症法もそのような立て付けになっているのです。

果たして、現状はどうでしょうか? 新型コロナウィルス感染症の感染者の方々は、「良質の医療を受ける権利」を与えられているでしょうか? 大都市圏を中心に、入院できない方々が多数いることが、現在の最大の課題になっています。このように、「良質の医療を受ける権利」が十分に保障されていないままの状況で、罰則が導入されることになりました。これは、感染症法の立て付け、あるいは法の精神を、根底から覆すものと言わざるを得ません。

「懲役」や「罰金」のような刑事罰ではなく、「過料」という行政罰になったのだから、「これくらいならばよいか」と思う方もいるでしょう。実際に、マスメディアも、主だった野党も、そのように受け流してしまった感があります。しかし、強調しておきたいのは、過料は「間接的な強制執行システム」である、という点です。

行政法学者の原田尚彦東京大学名誉教授は、過料について、形式的に見れば過去の義務違反に対する制裁だが、実質的にはその威嚇的効果によって行政上の義務の実現を間接的に強制し、その確保を図ろうとするもので、機能の面からみると行政上の強制執行を補完する作用であると述べています(『行政法要論』、学陽書房)。

「威嚇的効果」という表現にドキッとします。なぜなら、これこそは、日本のハンセン病政策の本質にあったもので、私たちが1999年の感染症法で、これとは反対の方向へと歩み出す決意をしたものにほかならないからです。皆さんは、「無らい県運動」という言葉を聞いたことがありますか? ご存じなければ、ネットで検索してみてください。

これは、隣近所に隠れひそんでいるハンセン病患者を、保健所や警察などに通報して、療養所に隔離させようという、監視制度のようなものでした。「運動」という妙な名前が付いているのは、国が都道府県に競わせて、ハンセン病患者をゼロにしようという運動だったからです。「患者をゼロにする」といっても、治療によってゼロにするのではなく、人里離れた療養所に送り込み、一生涯隔離することでゼロにするのです。

ハンセン病政策の誤りは、この「威嚇的効果」を国策として推進したがゆえに、ほんらい「良質の医療を受ける権利」をもち、保護されるべき存在である感染者を、あたかも「厄介者」であるかのようなイメージを国民に植えつけ、療養所への入所を拒んだりした反抗的な感染者を「犯罪者」扱いするという「懲罰感情」さえも呼び起こしてしまったということにあります。

「罰則」を盛り込むことで感染症政策が効果的になるという発想には、エビデンス(科学的な裏づけ)も立法事実(立法的判断の基礎となっている事実)もありません。むしろ感染症の歴史が示しているのは、強制力を働かせると、患者が隠れたり、逃げたりしてしまうことが起こるということです。検査で陽性との結果が出れば、入院しなければならない。それならば、検査を受けず、白黒つけずに放っておこうと思う人が出てくるかもしれませんし、辛い症状を抱えていても、我慢してしまう人がいるかもしれません。

病気になった人に、医療者側から見て望ましい行動をとっていただくのは、必ずしも簡単なことではありません。そこには、いくつもの影響因子があり、ハードルがあります。その中のどれを下げることができるかを戦略的に考えていく必要があります。そのためには、医療の中心には「患者の権利」(これには「良質の医療を受ける権利」だけではなく、「情報を得る権利」「自己決定の権利」など、いくつもの重要なものがあります)が置かれ、これを保障することが最大の使命なのだという認識を、社会全体で共有する必要があります。

医療機関や社会が患者に提供できる資源には、限界もあります。だからこそ、社会全体で協力して、何ができ、何ができないかのコンセンサスを丁寧に作っていく必要があります。感染症の場合、感染した人(その中には無症状の人から重症化した人まで、様々な人が含まれます)、医療従事者、行政関係者、そして一般国民という、立場の異なる人たちが、同じ方向を向いて、連帯し、協力してやっていくことこそが、感染症対策では必要です。分断され、敵対しあっているようでは、うまくいくはずがありません。罰則規定が、感染者とそうでない人の分断をもたらしてしまうことを心配しています。

運営委員として関わっているハンセン病市民学会は、この件について「政府、国会は「過料」修正案も撤回し、最重要の問題の審議に取組め」という声明を出しています。ぜひご一読ください。

 

2020年12月18日金曜日

大学教育の理想は「広く、深く」なのですが

 このコロナ禍で、今年はずっと大学での教育について、否応なしに考えさせられてきました。オンデマンド式(動画配信)にせよ、ライブ配信式にせよ、どうすれば満足のいく講義になるのだろうかと、試行錯誤の繰り返しの一年でした。

 肝心の学生さんたちは、どう感じているのかと、授業評価のアンケートが気になるところですが、これが意外なほど好意的で、通常の年と比べても満足度などが下がっていません。それなりに力を入れてやってきたつもりなので、少しホッとしています。

 これまでいろいろと試みて感じている課題について、ちょっと整理しておきます。まず、これは受講者数が多い場合——感覚的には、30人を超えるような場合でしょうか——は、学生さんの様子を随時確認することが難しいのが最大の課題です。ライブ配信形式では、双方向のやり取りも、仕組みとしてはあるのですが、対面式のようにはいきません。ですから、「あれ、反応が悪いな」とか、「このトピックは不要だったな」とか、聞き手の反応を感じとって、即座に講義の進め方を変える、ということがほとんどできません。

 受講者が数人とか十数人くらいの場合は、受講者に顔を常時見せる形で参加してもらうと、1人1人の様子が分かりますから、ゼミナールのような雰囲気のよい講義ができる気がしていますが、人数が多いと、これはまったく不可能です。受講者は顔出しをせず(顔を常時見せてもらってもあまり意味がないので)、モニターに向かって一人で話している感じになってしまいます。観客のいないところで芸を披露する人の気持ちもこんな感じかなと。不安というか、寂しいというか...。

 もう1つは、課題のこと。今般のリモート形式の大学生活に、わりとうまく適応できている様子の学生さんから、「課題が多い」という声を耳にします。リモート形式になって、受講確認(通常でいう出席確認)や、知識の定着度の確認(通常でいう小テスト等)のために、課題を出さざるを得ないためでしょう。

 これについては、日本の大学教育の根本的な課題と言えそうです。日本の大学では、履修科目がとても多く(吉見俊哉氏によれば、米国では1週間に4~5科目であるのに対して、日本では11~12科目とのこと)、毎週全科目で課題が出たら、こなしきれなくなってしまいます。一般論として、欧米の大学では〈科目数が少なくて課題が多い〉のに対して、日本の大学では〈科目数が多くて課題が少ない〉という形でやってきた。その課題がこの状況で露呈したというわけです。

 大学教育の理想は、どうしても「広く、深く」ということになってしまいます。「広く」は、文系理系の区別や、学問領域の垣根を越えて、多様な知識に親しむことです。「深く」は、1つのテーマを文献と論理を使って掘り下げて学ぶことです。「広く」は、引き出しを増やすこと、「深く」は、あるテーマについて論じることができること、を目指します。

 「広く深く」をこの状況の日本の大学で学んでもらうには、どうすればよいのか。簡単には言えませんが、個人的には、講義の中で「広く」を示唆しつつ、多くの時間と労力を「深く」にかけるようにバランスを取ることではないかと思っています。

 「広く」は「示唆」するにとどめます。例えば、あるテーマに関連する事柄を幅広く取り上げながら話をする。1つ1つの事柄は、一瞬触れるだけかもしれませんが、その一瞬で関心を持つ学生さんがいるはずです。その学生は、その事柄を自分で調べたりするでしょう。

 あくまで、講義の多くの時間は、「深く」に割く。例えば、1つのトピックの歴史的背景から現在の概況、そしてケーススタディのような形で問題解決のアプローチを説明する。ここでは、歴史という時間の軸と、論理の軸とが、明確に見えている必要があります。

 クリスマスツリーで言えば、「深く」が幹や太い枝で、「広く」は葉や飾り物のようなイメージでしょうか。いわば教員が見本となって、「広く深く」を示すことができればよいのですが、う〜む、自分にできているかと言われると...。